短期留学@カナダ 〜part 4〜
こんにちはSayです。
カナダの短期留学の最中、私はとても1ヶ月とは思えない濃い時間を過ごした感覚でした。
実は所持金は3万円分のドルのみで生活しようとしていたため、毎日のランチを買うのに$1ショップに行き、ピクルスや缶詰を買って毎日ちょっとずつ食べていたひもじい生活も良い思い出です。
Natalieとは特にたくさんの時間を過ごしました。街にビンテージの服を買い物に出たり、ショッピングモールでフラフラしたり。
特に楽しかったのはToronto Zoo。普通の動物園なのですが、私たちの行った真冬の平日にはほぼお客さんがおらず、二人であーだこーだ言いながら回り、誰もいないのでライオンに話しかけようなどと変なノリになり、遠吠えをしたりしていました。笑
そんな私たちの横を通り過ぎた、ワイルドライフのTVに出てきそうないかついトラックから飼育員のおじさんが降りてきて「この中に興味があるか?」と、奥の見えない分厚い扉を指さしました。何がいるのかもわかりませんでしたが、二つ返事でYESした私たちをそのトラックに乗せてくれて、大きな扉の奥へ。少し走らせると、そこには外に出されていないいろんな動物が隠れていて、どの動物もおじさんがくるとぞくぞくと近づいてきました。おじさんは私たちにも餌をあげさせてくれて、最高の思い出になりました。
私たちはZooに行くまでに電車からバスへと乗り継いだのですが、事前に、乗り継ぐその駅は怖い人がたくさんいるからという情報があり、私たちの警戒の大きさと歩くスピードの速さはすごいものでした。笑
あとあと考えると、夜まで人の賑わう”繁華街”だというだけのものだったのですが、まだまだ旅慣れない私たちの警戒心、すごかったです。あの頃の気持ちはいつまでも持っていたい。慣れて、舐めてかかったって何もかっこよくない。自分のセンサーを張りめぐらして、肌で感じて、やっとその街の印象を持つ。そうすることで、旅はより思い出深いものになるんだと思っています。
Torontoでは、酔っ払いやヤク中の人にしつこく絡まれたり、大きな男の人に追っかけられたりした怖い経験もありました。友達の中では、バスの中で寝ていたら高価な指輪をしている指ごと切られかけたり、歩いていてバッグをひったくられた人や、知らぬ間にお金を盗まれた人もいました。
どんなにたのしくて安全そうに見えても、犯罪者はいます。おかしな人もいます。普段とは違う国や街ですから、想像もしないところから傷つけられることもあります。細心の注意をはらって生活しなければなりません。自分の身は自分で守ること。その上で旅行や留学は最高のものになります。私はカナダで、それを身にしみて感じました。
”察する文化”の日本人にはやっぱりまだまだ、NOと言うことに抵抗があると思います。「わたしのためにやってくれたんだもんな、いらないなんていったら傷つくよなあ」とか「みんながいくっていってるのに怖いなんていったら恥ずかしいよなあ」とか。でも、海外に出ると自分の測りでYESやNOをしっかり伝えることはとても大事なことです。自分の意見や意志があってはじめて、人との会話や関係が成り立つんですよね。
前回、Seattleの短期留学では、NOが言えずに食事ごとに地獄をみていた私。今回のホームステイでは、食事の回数も量も味も、ちょうどよかったのでNOを言う機会などはなかったのですが、今回は20歳にして海外に来ていますので、友達から良くない誘いなどを受けることもありました。とても勇気がいることだったけど、NOということで自分を守り、その上でできた思い出、その上で近くにいてくれて好きだと思えた人との出会いだからこそ、今でも大事にできているのだと思います。
まだまだカナダでの思い出は尽きません。書いているととても幸せな気分になるし、思い返すと、やはりコレがあっての今なのだなあと。毎回思いますが。
何気ない今日も、きっといつかの何かに繋がっているのだとおもうと、おもしろいですね。
今日も素敵な1日になりますように!
短期留学@カナダ 〜part 3〜
こんにちはSayです。
3月のトロントというのは、まだまだ冬もあけずに雪が降りしきる日もあれば、春の予感がする日もありました。この1ヶ月で見た衝撃的な出来事のひとつに、ある朝、Finchの駅に向かう雪道でホームレスのような装いのおじいさんが横たわっている光景がありました。寒くないの?え、大丈夫・・・?と一度はチラ見で通り過ぎたものの、やはり気になって立ち止まり、振り返ると口髭のところがまるで映画でみるソレかのように凍り付いていました。
駅の警備員さんのような人に拙い英語で伝えると、横たわった彼を触って、おそらく警察か、救急車に電話をはじめました。「dead」という単語を聞き取り、ゾっとしました。学校に行き授業でこの出来事を話すと先生は、トロントでは珍しいことではないと言いました。とても悲しい現実ですが、生きていくために働きお金を稼ぐこと、その上で自然や地球に寄り添い生活すること、正しくお金を使うこと。それまで当たり前すぎて考えたこともなかったのですが、この最低限の能力がないと人は死ぬのだとわかりました。
ホームレスになってしまう背景には、決してその人のせいで起こってしまうことではないことも多くあると思います。自らはおろか、家族、国や政策が貧しいばかりに、人間を殺してしまうという悲しい現実もあります。しかし、そのせいにしたり、悲しんでいるだけでは人は簡単に死んでしまうのですよね。おおもとが貧しいのであれば、より自分が強くいなくてはならない。だれかのせいにしても何も解決しない。
この記事を書いている2020年現在、コロナウイルスで世界は大混乱中です。
今私はニュージーランドに住んでいます。先日突然、”明日から最低4週間の外出禁止”と国より告げられました。もちろん仕事にも行けません。ただ、まだ支給はされていませんが、政府よりこの期間仕事ができない分、生活費の助成金がでるとの発表がありました。
家の外へ出られるのは、心を病まないため、体を不健康に仕向けないためのジョギングなどのエクササイズと必要最低限のものを買いに行くスーパーのみ。スーパーでは人同士の距離をたもつ為に店内に入れるお客さんの数を制限していますので長蛇の列ができ、簡単に買い物はできません。車も基本的には使えませんし、すれ違う人との距離も2mを置かなくてはなりません。
これまで自由に暮らしてきた国民からすれば、準備の期間もなくして、突然生活が大きく変わってしまうような厳しい発表でした。しかし、国民の安全を考え、このような決断を迅速に下してくださったNZ政府は本当に素晴らしいと感じました。私の周りのNZ国民も政府に感謝の気持ちを抱き、信頼度も増していると言っています。
一方、私の家族や友人など大切な人がいる日本では、いまだにそのような政策はとられていません。どんな内情があるのか私はよくわかりませんが、シンプルにおかしいでしょう、とおもいます。たくさんの人の命に関わることです。このことに関して日本は確実に”おおもとが貧しい”のでしょう。
昨日連絡をとると両親は、明日も普通に仕事に行く予定だと言いました。私の両親は50歳を過ぎています。コロナウイルスは年齢があがるほど致死率も高いと聞いています。私は、家族にどうしても家の外に出て欲しくないと思いました。母は店舗仕事をしているので、自分がいかなくなったら・・・という思いで簡単にお休みをすることができないということもわかります。ただ、このような貧しい国のしたにある貧しい組織にいる場合、自衛をしていくしかないのです。いざどうにかなったときに、誰のせいにもできないですし、そうなったときにはもう遅いですもんね・・・。
暗い記事になってしまいましたが、”外に出ることで”感じることってたくさんありますよね。
国を超え雪の降りしきる街でみた光景、生まれ育ってきた国を外からみて知る短所や、あらたな土地で覚える安心感。
どうか、皆さんが自分を守って何事もなく事態を乗り切れますよう。
起きてしまったこの地獄が早くおさまりますように。
短期留学@カナダ 〜part 2〜
こんにちはSayです。
さて、トロントに無事到着した私は外の雪景色に圧巻。
東京生まれ東京育ち、こんなに綺麗な雪が街を着飾っているのは初めて見ました。学校の手配してくれたバンに乗り、ホームステイ先のお宅まで。その日は私ひとりだったので、運転手のおじさんがしきりに話しかけてくれましたが、言っていることは2割ほど理解をできて、答えたい言葉は1割も浮かんできませんでした。
Finchという駅から歩いて10分ほどのところにある、裏庭の大きなお家で出迎えてくれたのはイランからの移民のご家族でした。スーパーのお惣菜を作る仕事をしているDadと、フリーのミッドワイフに加え美容師もしているMom、頭がよく、2年飛び級をしている10歳の男の子の家庭。私の部屋にはRyoちゃんという女の子がすでに住んでおり、あと2日で帰国するとのことでした。初日夕飯時、いろいろな質問をされたのですが、さっぱり何を言っているのかわからず。嬉しそうに話していたら私も笑って、シリアスな顔をして話していたら私も真剣に頷きました。Ryoちゃんは将来お医者さんになるべく英語を学んでいるとのこと。もちろん私の何倍も英語を理解していました。負けず嫌いが発動し、その日の夜中、疲れているにもかかわらず単語帳を明け方まで読み込んだことを覚えています。
2日後、Ryoちゃんの帰国と同時に、私は語学学校に通い始めました。
朝はDadについてきてもらい、一緒に地下鉄のカードを購入し、North york centreという駅までひとりで乗っていくことになりました。実はこれ、たったの1駅だったのですがそれこそ、これまでの人生で1番といっていいほど緊張しましたし、とてもとても長い時間に思えました。North york centreというアナウンス、今でもその声、言い方、全部覚えています。わたしにとってこのアナウンスはいま、とってもエモくて、それを耳にするだけで涙がでてきそうになるのです。笑
電車を降り、出口を出ると複合施設のような建物に直結しており、そこをエレベーターで上がったところにOmnicom School of languagesという語学学校はありました。学校には日本人のスタッフの方がいらっしゃって、クラス分けのテストが終わったあと、その日入学の生徒が集められ、オリエンテーションをされました。ここで出会ったTomo、Nobu、Natalieという3人の友達、いまや大親友です。
学校が終わると、とりあえずこのメンバーで、学校の前にあったバーガーショップに行きました。今や大親友とはいえ、当時は一緒にいることが違和感でしかなかったことも鮮明に覚えていますし、今だから言えることで、皆それぞれ苦手意識を持っていたことを笑いながら酒の肴にすることもあります。
Tomoは関西の大学生で、お笑い芸人のようなノリで軽い話をひたすらにふっかけてきました。Nobuは岡山出身の京都大学生。落ち着いていて、私のアホなテンションで会話して大丈夫なのだろうかと不安になりました。Natalieの見た目は完全に外国人でしたが、中身は生粋の日本人。彼女はイランのハーフですが日本を出たのはこれが初めてだと言いました。「渋谷のクラブで〜」とか「あ〜踊りたい〜」などとしきりに言っていて、なかなか関わることのない人種だぞ・・・と恐縮してしまっていました。笑
それでも、もうホストファミリーも友達もできた今、私はこの国でこの街で、ひとりぼっちではありません。それがすごく嬉しかった。
わくわくした気持ちで、白い雪の世界の中、はじめての冒険がはじまるのでした。
今日も素敵ないちにちを♩
短期留学@カナダ 〜part 1〜
おひさしぶりです。Sayです。
だいぶ時間が空いてしまいました。NZ生活では新しい仕事をはじめたり、コロナウイルスで外出禁止になったりとだいぶ忙しい毎日でした。という言い訳です。笑
親友にブログの存在を明かし、背中を押してもらったので今日からまた書き始めたいと思います。
2011年の3月に、私はカナダのトロントに単身で短期留学に発ちました。
空港までは家族に車で送ってもらい、一緒に空港内をうろうろとしました。これからはじまることが私にとっては未知すぎて、怖さも寂しさも、わくわくでさえあまり感じなかったことを覚えています。出国の時間が近づいたときに父は私に言いました。
「自分で住んだことも行ったこともない、言葉も通じないところへ娘を出すということは、俺もお母さんもいろいろな覚悟の上で決意したということだから。そこでSayが誰に銃を向けられても俺は飛んでいけないし、天災があっても助けることはできない。それでもSayを外国に出したということをわかっていてほしい。その思いを持って、責任のある行動をしてほしい。でも、自分のしらないことを知ったり、見たり感じたりすることはすごく良いことだから存分にたのしんできなさい。」
うちの父はむかしながらの頑固な日本男児。ツンデレというか、普段から甘いことばかりいうような人ではありません。でも誰よりも家族を大事に思ってくれているひと。この言葉は、このあと私が歩んでいく人生を決断する中で、いつも心においておく大事な言葉になりました。
可愛い子には旅をさせることが、いかに難しいことなのか。今の私、29歳。子供はいませんが、あの頃の私よりはその決意の中に含まれた愛をもっと深く感じられます。両親がかっこよく決意をしてくれたおかげで、これまでの私の経験があるのだと思うと感謝が尽きません。
自分でお金を稼いで、自分で手配をして、自力で発つのだ、と決めた私でしたが、どんなときも”一人で” なにかを成せることなどないのだとわかりました。
あのとき、父のその言葉には「うん。」と軽い一つ返事しかできなかった私だったので、それは行動で応えていきたいと思わされました。
さて、家族とのお別れも済ませ色々と手続きが終わり、広すぎる免税店を一人買い物をしていると突然なんともいえない孤独な気持ちに襲われました。タバコ、安いからお父さんに買っていこうかな、お母さんこの香水この前なくなったっていってたよなあ、化粧品安くなってるけど友達はみんな必要ないだろうか?買い物を済ませたら家に帰るようなつもりでまわっていたものの、ここから1ヶ月私は一人なのでした。突然しゅんとした気持ちになり、なにも買わずにカナダエアの搭乗ゲート前に座りこみました。たまたま隣に座った日本人のおばあさんに、旅行でいくのか?と世間話をされ、1ヶ月語学学校に通うのだと話すと「友達もいないなかよく一人で旅立つわね、こわくないの?」と聞かれ、そこで私はやっと恐怖心がでてきたのでした。そうだ、私は本当にひとりぼっちなんだ、と。
でも、その気持ちは一瞬で晴れました。飛行機に乗ってもこのおばあさんがトイレに立つたび話しかけてくるし、座席の隣のからだの大きな黒人さんは体の割に機内食のデザートを残すので、そのたび「これ、あげるよ」と会話してくれる。CAの男性はトロントで生まれ育った韓国系カナダ人だそうで、あそこの日本料理のレストランが美味しいんだ、と詳細を紙に書いて渡してくれました。きっとどこにいっても素敵なひとに出会える。わくわくとした気持ちでカナダに到着しました。
ひとまずここで。
10年も前のことを思い出して書いているのですが、やっぱりいつになってもこの思い出は私の記憶からなくならないなあ。
世界は大混乱中ですが、どうか安全で素敵ないちにちを。
大事にしたいもの
こんにちはSayです。
コロナウイルス、怖いですね。
先日、待望の甥っ子が産まれました。
そんな激かわ新生児のMy nephewを含め家族や友達は皆、人ごみの中で東京に暮らしているので本当に心配です。
地球の歴史の中、新しいウイルスがうまれてしまったり、温暖化であったりと、様々な環境の変化があることは当然のことだと思います。地球もなまものだから。
でもその歴史のよくない変化や劣化を急速化してしまっている原因は、人間のエゴであることがほとんど。
科学や技術の発展、人間の進化は、どうかそれを地から支えている地球を守るためにもっともっと使っていってほしい。
ひとって幼い頃は、できることが増えるたびに大人になった気になって、「そんなことお母さんに言われなくたってわかってる!お父さんどうせこんなこともできないんでしょ!私は一人でなんだってできるの!」って反抗期を迎えたりします。
でも、そんな自称大人なあなたたちが学校に通うためのお金は誰が稼いだんでしょう、いばり散らしているその家は、誰がどんな思いで手に入れ、どんな思いで維持しているんでしょう。その言葉たちは、誰が教えてくれたんでしょう。
ありがたさに気づく頃にはもう育ててくれたその場所や人は古くなり、老いてしまい、どうしようもできない状態になってしまっていることもある。幼いわたしたちが傷つけたり、大事にしなかったことを悔やむ日が来てしまうのです。
家族という小さなコミュニティの中でもそんなサークルができてしまうのだから、地球という大きなコミュニティでそれに気づくことはもっと難しいかもしれない。
でもすこし目を凝らすだけで、地球が泣いていることに気づけるタイミングってたくさんある。地球が元気であることのありがたさにきちんと元気なうちに気づけるように。少し元気がなくなってきたことにも気づいて、早いうちに手を貸せるように。
どんな生き物よりも頭のいい人間たちが、その力を、支えてくれているもののために発揮できる日がきますように。
新しいウイルスがうまれてしまって身近な大好きなひとを傷つけてしまってから。温暖化を放置して、大好きな場所や愛おしい命を焼き殺してしまってから。起きてしまってからでは遅い。
実際にわかっていながらも行動できていないこと、たくさんあります。わたしはそれを恥としっかりと刻んで、生きていきたいです。
楽しむ、ハメを外す、快適に動く、そんな幸せな時間を過ごす前に、何も失うものはないか考えてみることから。
留学の話から少し外れてしまってすみません。
また次からは続きを書きたいと思います!
素敵ないちにちを♩
短期留学の決意
こんにちはSayです。
ひとつ前の記事で書いたように彼との交際を終えることとなるのですが、別れる前から私は「きちんと留学をしてみたい」と頭の隅で考えていました。ただ、彼や、大学でできた友達との時間が楽しすぎて、行動をとるのを後回しにしていました。
彼の夢に勝てなかった私、だって自分でひとつの決断も行動もできないんだから当たり前だ、と存分に泣き腫らしたあと、初めて決意をすることとなります。
大学にも交換留学制度があり、私の友達は皆その制度を使って短期留学をしていました。私にももちろんその制度を使う権利があったし、何よりみんながいるしいいじゃん、と、説明を聞きにいきましたが、どうしてもここでその道を選ぶのはなんだか自分自身が納得できませんでした。
エージェントを使ったからといって、学校のみんなと行くからといって、その留学が甘えているわけではまったくありません。でも今回の私は、自らに責任を持てるよう、学校や航空券等の手配は全て自力でやることに決めました。私には孤独が足りなかったと当時の私は思っていたので、単身で向かうのは当たり前。アルバイトも週7で入り、お金も親に頼らずにと考えました。決断してから1ヶ月ちょっとで大学の春休みが来てしまったので色々と急ピッチで進めました。
実際、英語圏の留学選択肢の中、なぜカナダにしたのか、トロントにしたのか、はっきり覚えていません。Omnicom school of languageという学校に通いましたが、その学校にしたのは他と比較して多少安値で、日本人のスタッフが在中しているという理由からだったと思います。
必死でアルバイトを頑張りましたが、1ヶ月で全額貯めることはできず、両親から多少の援助もしてもらいました。それがいちばん、悔しかったことをおぼえています。当時の夢は1日の睡眠時間1時間でフル稼働できる体になり働きづめたい!でした。笑
ほんの1ヶ月ちょっと日本を離れただけでしたが、今の私を作るいろんなものを得ることができました。
ゆっくりと、書いていきたいと思います。
すてきな1日を♩
グループ旅行@サイパン
こんにちはSayです。
ニュージーランドはいよいよ真夏だなという日差しになってきました!
日本は真冬なんですよね。地球って不思議。
さて、初めての自力海外韓国に引き続き数ヶ月後にサイパンの予約をいたしました!
おなじみのChaと、Ai、Miちゃんの4人で旅立ちました。
それにしてもサイパンも格安で行ったんですよ。確か2泊で3万円ちょっとだったと思います。カレンダーで一番安い日を狙いました。大学生って時間に融通が利くので、コスパの良い生活が送れますよね。
今回は、旅行会社のツアーをつけました。その方が安かったんです。
バスでサイパン島内の案内をしていただいたのですが、日本が統治していた時代の話やその後の戦争の話を聞き、その跡地を巡りました。はずかしながら私は歴史を学んでこなかった人間なのですが、このツアーをきっかけに歴史に興味を持ったのを覚えています。
なんで歴史の授業がつまらなかったのか、それは義務教育当時の私に、歴史で学ぶことは他人事すぎたからだと気付きました。過去のこと?本当にそんなことがあったのかもわからないし、そんな人がいたのかも知らない。知らない人が誰ともめて戦争になって、この国があの国とむかしはひとつだったとか、だからなんだ、いまの自分に関係のないことなど興味がない。ってことだったのだと思います。
ただここで、過去のことが、今の私達を作っていることにやっと気づいてきたのでしょう。気づくのが遅すぎたかもしれませんが、良いきっかけとなりました。ツアーをつけると回りたいところを自由に見ることができないし…と、今はツアーに少し嫌悪感を抱いていますが、こう思い返すと今後の私を変えるとても意味のあるチョイスだったなと思います。
一番に衝撃を受けたのが”バンザイクリフ”という断崖でした。
その場に着いたとき、なんて美しいところなんだろうと感動したのもつかの間、ガイドさんが「ここで天皇陛下万歳、大日本帝国万歳といってたくさんの日本人が自決をしました」と説明をしてくださいました。なんでそんなことをしなければいけなかったのか、みんな正気でやっていたのか。知識不足の上、平和ボケをしている私には一切理解ができなかったけれど、涙がこみあげてきました。
旅も2回目の私、ちょっと背伸びして「本やガイドに載らないようなところにいってみたい」という好奇心が生まれました。歩いていて見つけた、明らかにローカルすぎる見かけの小さなレストランには、現地の人がたくさんいました。わくわくして入るとそこはフィリピン料理のお店。ブッフェのような形式でいくつかの料理が並んでいたのですが、ここでまた衝撃。ほぼ全ての料理に、大きめの魚の頭が入れられていて、私がそのうちの一つをオーダーすると「魚の目はいりますか?」との質問をされました。「いるわけあるかー!」と断りましたが、後ろに並んでいたお兄さんが「魚の目はおいしくて希少だからみんなで取り合いなんだよ」と教えてくださいました。蒸し暑いアーケードの下で、ハエにたかられながらランチを食べるのは、JDの私達には割と大きな冒険でした。
定番、マニャガハ島ではいろいろなアクティビティをし、透き通る海の中をシュノーケリング。美しかった。またここでは、若い日本人が多く働いていて、ひそかにかっこいいなあと思ったりもしていました。
夜、ホテルへの帰り道は日本人大学生からのナンパの嵐。リゾート地あるあるですね。若いって無敵。ウィードの売りつけも、あぶない人の声掛けも全部素通りして部屋に帰ると2室中の1室が悪臭。そして鳥肌がたちました。窓、開けっ放し…。亜熱帯のサイパンで。どうぞ想像してみてください。笑
結局1室を4人で過ごすことに。ベランダに椅子を並べて星を見ながらおしゃべりして、とっても幸せでした。私ごとですが、このサイパン旅行の寸前に当時付き合っていた彼氏から別れを告げられていました。ヨ●モトでお笑い芸人をしていた年上の彼は、彼の夢と私との将来の間で揺れていて、夢を選んだところだったのです。どんな時も友達は味方でいてくれました。この旅行中も、みんながたくさん笑わせてくれていたおかげで寂しい気持ちを思い出すことはありませんでした。
当時毎日のように一緒にいてくれた彼が、私よりも夢を優先したこと。19歳の私はとても悔しかったんです。実家暮らしで、学費も両親が払ってくれていて、世間のこと何も知らなくて、特にこれといった夢もなくて。彼氏にも、いやだ、これやって、あれがいい、が口癖で。そりゃこんな私よりも輝かしい未来を選ぶよな〜って納得さえしてしまっていました。彼がことあるごとにネタ帳に書き込んでいたり、ステージに立ち輝いているのを見ると、何で私にはなにもないんだろうっておもっていました。
自分の何かを変えたい。そんな私はこのあと、ある小さな決断をします。
続きはまた。
今日もすてきな1日になりますように!
初めての自力海外@韓国
こんにちはSayです。
ブログ、はじめての取り組みなのですがどこからかいろんな方がアクセスしてくださるんですね!アクセス解析でアクセス数が見れるのですが、感動しています。笑
自分の思い出残しにとどまらず、誰かのお役に立てたらとっても嬉しいです。
さて、はじめての海外を夢のアメリカで過ごした私でしたが、大学生になると外国への想いは止まらず。しかしアルバイトでそんな莫大なお金を稼げるわけでもなかったので、とりあえず近場の格安アジアから攻めることとなりました。
私が大学一年生の当初、時代はウォン安。
韓国料理大好きな私と親友のChaは2万5千円でソウル2泊という、とんでもないツアーを発見しました。ホテルは5つ星のロッテホテル。大韓航空。
シアトルへは先生の引率のもと20名ほどの団体で行ったという自力海外初めての私と、外国自体が初めてのChaの2人旅。誰にでも何にでも”初めての時”って必ずありますが、あのドキドキワクワクって、一生忘れられないですよね。
搭乗開始より私達の感想「飛行機内、キムチの匂いするんだけど」
食いしん坊なふたりはこれにより、機内食でキムチ出てくるってこと?と大はしゃぎ。旅行雑誌広げて、あれしようこれもしようって話していたらすぐに離陸し、念願の機内食。キムチ、でるはずないよね。笑
ここでびっくりしたこと。韓国人の乗客、かなりの割合で「マイコチュジャン」なるものを取り出して機内食につけていたんです。チューブの。着いたら私達もあれ買おう!と意気込んだのでありました。
3時間もせず、韓国に到着。さ、さ、さむっ!!!!ほっぺたが痛かった。え?韓国って寒いの?っていう若き私たちの遅すぎる疑問。笑
1月の韓国。極寒なんですよ。東京の1月の何倍も。私は割と本気でこの3日で死ぬんじゃないかという感情に襲われました。
しかし隣で新潟生まれ新潟育ちのChaさんが「でも雪ないから平気じゃない?」とぽけっとしていたので、だいぶ救われました。笑
この気候もあっての激安ツアーだったんですよねぇ。そんな社会のお金の仕組みも今や当たり前に頭にあるけれど、19歳にてそれを身を以て知り、今後の旅行に役立てていくのでありました。
事前に空港からホテルまでの送迎をつけていました。
私達とおなじくらいの年の女の子2人組との4人でバンに乗り、助手席にはガイドのキムさんという韓国おばちゃん。キムさんはもちろん、日本語を話すことができました。そして同乗の女の子2人は流暢な日本語と英語を混ぜ、ルー大柴さんのように会話をしていたのです。車内の半分がバイリンガルという環境、なぜかとても心の底で劣等感を感じたのを覚えています。
ホテルに着くと、キムさんがフロントでチェックインまでお手伝いしてくださいました。知り合いのやっているエステサロンがすごく良いから!ここのマッサージは最高だから!焼肉はここで食べなさい!送迎もしてあげるから全部!と、おすすめされるがままに「キムさんこんなところまでお手伝いしてくれて優しいね、いいねぇ。素敵な人と出会えたねえ。ラッキーだなぁ。」と簡単に予約してしまう私達。ポジティブ〜!笑
確かにそれは紹介フィーの発生する、彼女の”仕事”であったと今では簡単に理解できます。普通に行くよりももしかしたら少し損をしていたのかもしれない。でも、初めての海外の私達にはありがたかったのです。優しいねって、素直におもえたのだからそれでよかった。今はキムさんのような方の”仕事”の部分を、インターネットや雑誌や、いろいろな手段を使って節約し、私は旅行を楽しむことが圧倒的に多くなりました。
キムさんのご紹介により、いろんな初めてを経験した私達。エステサロン、横のベッドには顔にきゅうりをたくさん並べられたChaがアカスリされていたり、よもぎ蒸しで下半身を熱されなんとも言えない気持ちになったり、何やらすごい効能のあるという土のドームでサウナ状態になったりと、韓国美容を爆笑の嵐の中エンジョイしました。
本場の韓国料理は思っていた何倍も美味しかったし、大学生、お化粧に目覚めたての私達、街ではメイクアップツールをたくさん購入しました。夜遅くまで洋服問屋の立ち並ぶ東大門では寒さしのぎの服を買ってみたり、TAXIでしっかりぼったくりもされました。大した額ではなかったものの、悔しかった。
夜は、5つ星ホテルのお部屋でも、日本にいる時と変わらず二人でくだらない話をしたり、歌を歌ったりしました。守られた部屋でいつもの親友と変わらないことができること、それがどれだけ幸せなことなのだろうという気持ちにもなりました。散策はとても楽しかったし、特別怖い思いなどもしなかった、ソウルの街はとても素敵なところだったけれど、言葉の壁や、日本との違いを受け入れていくことに気が張っていたのだと思います。
大量の韓国海苔をスーツケースに詰めて、しっかりマイコチュジャンチューブを機内に持ち込み、日本に帰国しました。やっぱり大韓航空、乗ると同時にキムチの匂いがしたのですよね〜。JALやANAは何の匂いがするのだろう。醤油?笑
なににせよ、無事に帰国できて何よりでした。
完全に私の思い出ひっぱりだし記事になってはしまいましたが、これを機に、海外旅行や海外生活が当たり前になってしまった方、ぜひご自身の初海外を遡ってみてください。
入国審査、非常に緊張しませんでしたか。パスポートに押されるスタンプ、なんだか誇らしくなかったでしょうか。笑
それでは、今日も良い1日を〜!
ついに憧れの外国へ
こんにちはSayです。
前回に引き続き過去をちょっと遡ってみたいと思います。
無駄なイキりにより英語への興味を押し込んでしまっていた当時も、心の中は外国への興味でいっぱいでした。なにがそんなに私の興味を誘っていたのか、それはきっとイケメンであり、みたことのない景色であったと思います。
ただ、一番に私の心を動かしていたのは『フルハウス』の人間模様であったと、大人になって思い返した今、確信を持って言えます。
『フルハウス』は、サンフランシスコに住む3姉妹の家族が、不慮の事故でお母さんを失ってしまい、お父さんとその親友、お母さんの弟の男三人で子育てをしていくコメディードラマです。
笑いあり、涙あり。家族の絆や恋愛模様など、一つの家族から色々な感情を学びました。家族でも友達でも恋人でも、まっすぐに気持ちを表現し、たくさんのハグやキスをして、「愛してる」と言いあうその環境に憧れていました。
うちも『フルハウス』とおなじ3姉妹です。私の家族も日本の家庭にしては愛情表現が豊富な方だとおもいます。
それにしても、英語って想いの伝え方がダイレクトなんですよね。日本語吹き替えなんてもう、なかなか日本では聞かないような言い回しばかりでした。
今でも言葉フェチな私なのですが、当時からそんなところに憧れを抱き、英語を話してみたいなという願望もうまれました。
それからアメリカ人は本当に『フルハウス』の皆のような愛情表現をするのかなとか、あんな大きなお家に住んでいるのかなとか、当たり前にヤシの木があって、オープンカーが走っているのかなとか。
そんな思いと興味はイキった中学生の私からも消えていませんでした。
高校に入り、ついに英語が嫌いな科目になりました。
分厚いつまらない教科書、これは動詞で〜過去分詞が〜なんて、イキるとかそんなの以前に意味が不明でした。英語の時間は良い睡眠の時間となってしまいました。
2年生の夏、学校の交換留学制度でアメリカのシアトルに1ヶ月いけるというプログラムが発表されました。両親も積極的に私の背中を押してくれ、ついに憧れのアメリカへ。生まれて初めての外国へ。
長いフライトでしたが、なんの苦でもなかったし、わくわくして一睡もできなかった。それにしてもしきりに機内食が出てきたのには驚きました。アメリカンエアかデルタエアだったと思うのですが、途中で吐き気がしました。
初めて着いたシアトルの空港は、やたらとコーヒーの香りがして、歩く人はなんだかみんな大きく感じました。外に出るとカラッとしていた気がします。
バンに乗って学校まで向かう道で墓地があり、その日本との違いに驚きました。
学校につくとオリエンテーションがあり、すぐに割り当てられたホストファミリーの家族を紹介されました。早速きました!ハグ!笑
実際にされるそれはなんだか照れくさくて、どれくらい強くしていいものなのかもわからず、結局英語も何を言っているか一切わからず、でも、とてもきもちがよかったことを覚えています。
ホストマザーの運転でお家につくと、周りの住宅はまさにフルハウスのような感じ。私の滞在先のお家も大きくて、お庭にトランポリンもあって。二つ年下の男の子と、7、8つ年上のお姉ちゃんお兄ちゃんのいる、素敵なご家庭でした。
話していることこそわからなかったものの、いつも温かい笑顔でお話しして、ハグやキス、たくさんボディタッチをしていたことも印象的でした。
クリスチャンの家庭だったので、食事の前に皆で手を繋いで感謝を唱えました。
ここで一つ、私にとってのアメリカ問題点が浮上しました。
食事の量が多すぎる!そもそもの食事の回数も多すぎる!さっきアイス山盛り食ったぞ!こんどはチョコレートバーか!そして間も無く夕飯か!そんな大きさのステーキ食べたことないぞ!夕飯終わったらまたアイスか!!!!!ああ私は和食が好きだ…。白米に鮭と納豆が食べたい…。
断ればよかった話なのですが、そんな語彙力も度胸もなく、いただいたものを拒否するなんてという日本人が出てしまい、毎日胃もたれと嘔吐にやられていました。
それ以外の生活は本当に理想そのもので、ホストファミリーは毎晩のように遊びに連れ出してくれました。ゴーカートやホッケー、バスケ、そして野外映画。
野外映画、大きな広場にスクリーンがあって、皆その前に車を並べて、持ってきたブランケットとスナックを抱えて映画を観るんです。私にとってそれはすごく新鮮で、あ、いま日本じゃないところにいるんだ〜帰ったらお父さんとお母さんに教えてあげたいな〜って少し誇らしい気持ちにもなりました。
当時は、スマホなんてないし、WIFIなんて概念もありませんでした。日本の家族とは一度も連絡をとれなかったとおもいます。
たった一つインスタントカメラを持っていきましたが、どれもこれも新鮮すぎて、どこを撮ったらいいのかわからなくて、結局最後に行ったディズニーランド、カリフォルニアアドベンチャー、ユニバーサルスタジオで39枚を使ったんだと思います。
そのときの香りやあたたかさや、綺麗だったものやいろんな気持ち、日本に帰って家族にたくさん話しました。今のように、画面に映る写真や動画を見せて「綺麗でしょ」って簡単に伝えられなかったからこそ、しっかり脳裏に刻んで帰国し、自分の言葉で伝えました。そのアウトプットがあったからこそきっと10年以上経った今でもしっかり覚えているんですよね。
スマホやカメラ、通信環境の進化は本当にすごいものだなあと思います。
今や思い出を簡単に切り取り、簡単に保管することができるようになりました。いろんなひとがいままででは見ることのできなかったものを簡単に見ることができるようになり、遠く離れた国にいても簡単に連絡をとれるようになりました。
それにより、夢や世界も格段に広がり、とても素敵で便利な世の中になったと思います。
でも、たまに、あのときの不便で素敵な感情を思い出して、あれもすごくよかったなって気持ちになります。好きな人からのメールのセンター問い合わせも、今やりたくてもできないですからね。なんでも高速で受信するしどこでもWIFIがありますからね。既読になったらわかるしね。笑
話が変わってきそうなので、終わりにします。
この渡米をきっかけに私の高校生活では仲良しの友達同士のハグが流行り、今では周りの友達とハグをするのは日本でも割と普通になっています。アメリカかぶれ?それならそれで良い、だって大好きな人と出会えた喜び、ありがとうの気持ち、私は触れ合うことで何倍も伝えられる気がするから。
さ!今日もすてきないちにちを〜!
外国に興味をもちはじめたのは
こんにちはSayです。
今回は私が外国に興味を持ち始めたきっかけをお話させていただきます。
私は1990年生まれなのですが、同年代の方々、幼い頃NHKで『フルハウス』というアメリカのドラマが放映されていたのを覚えていますか?私はそれが大好きで、毎日放映の時間を楽しみにしていました。
そしてその中でJohn Stamosさんの演じていた「ジェシーおいたん」が私の初恋の人でした…。今見ても抜群にかっこいい。顔も、あの雰囲気も。よだれ。
ある日5、6歳の私は父に「ジェシーおいたんと結婚ちたい!」と宣言。
しかし父は私に言いました。「この人たちはSayと同じ言葉を話せないんだ、英語を話しているんだよ。結婚したいなら英語を話せるようにならなきゃね!」
純粋無垢なSayはすかさず「じゃあ英語を話ちたい!」となり、おじいちゃんにアルファベットの本を買ってもらったりしました。今思えばあの時の習得力ってすごくて、その本を読んですぐにA~Zを言えるようになり、AppleやBallなど、本に載っていた単語も難なく覚えていたなあ。
そんなこんなで幼き純粋な熱は冷めていたものの英語への興味はあり、小学4年生ごろからNOVAに通わせてもらうことになりました。
いつも恥ずかしがり屋の私が英会話教室に飛び込んだのですがなぜだか外国人の先生とは恥じらいなく話せたんです。不思議だったなあ。それが快感で、NOVAに行くのが週1回の楽しみでした。
途中から私のイケメン大好きセンサーがビンビンに発動し「あのPeterって先生はなんか怖くて嫌だ。」と、少し自分の好みから外れる先生をすぐにチクって担当から外していました。
別に怖くもなんともなかったよ、ごめんなさい外した先生方。笑
小学生のうちはたのしく通い続けましたが、中学生になり部活がはじまると、NOVA通いが難しくなってきてしまって。
そんなとき、NOVAさん事実上の倒産へ。笑
高額のチケットがまだ未消化のまま残っていたため、うん十万がゴミ箱へ。お金の価値のわかる今、両親への申し訳なさでいっぱいです。私が悪いわけではないけれど。社会とは、恐ろしいですね。
そう、それで私の英語学習が終わってしまったのです。
中学でやる英語は、授業をまともに受けることがなんとなく面白くなくて、というただのイキり期で、ちゃんと取り組めなかったな。せっかくNOVAで学んだネイティブの発音をするのも恥ずかしくて無駄に消極的になったりもしてしまいました。もったいなかったな〜。
そうそう、我が家は幼い頃からJourneyやElvis Presley、Queenなど両親の影響で洋楽が身近にあることが当たり前でした。ホームビデオでも洋楽を踊り狂うパーリーキッドだった私がたくさん収められています。笑
そんな背景も少なからず影響して、その後の未来があるのかなあ…。
以上、イケメン大好き幼少期からスカした中学生までの歴史でした〜!